「『学校』という場所から」が示すもの ―子どもの「健康と安全」を保障するとは何を意味するのか?―

先のコラムにおいて、山﨑洋介教諭は、休講措置のなかで学校の感染症対策が「管理的になりすぎていないか」との疑問を提起しています。実際、報道レベルにおいても、子どもたちが1m以上の距離を置くことや、私語を禁止されるなどの対応がなされ、さらに近日まで、子どもたちが校庭で遊ぶことすら多くの自治体で禁じられている実態が報じられてきました。そこで考えられなければならないのは、はたして、子どもの「健康と安全」を守るとは、本来、何を意味しているのか、ということです。より率直にいうならば、学校における感染症対策のもとで、子どもたちの精神的な健康や安心は保障されていたのか、一人の人間として尊重され、「子どもでいること」ができていたのかが問われています。

この問いを考える上で参考になるのが、日本国憲法26条に定められた「教育を受ける権利」の意味内容です。この条文のもつ法的意味については、1976年の北海道学テ最高裁判決において次のように述べられています。

「この規定の背後には、国民各自が、一個の人間として、また、一市民として、成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に、みずから学習することのできない子どもは、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる」(最高裁大法廷判決:昭和51年5月21日刑集30巻5号615頁)。

ここで「教育を受ける権利」の意義は、子どもの「成長、発達」を実現するために必要な学習を保障することにあるとされています。子どもの成長、発達を保障するということは、決して、生物学的、身体的に子どもから大人になれば良いということではなく、子どもが人間として尊重され、自己の人格を発展させるということに重きがおかれています。いわば、子どもたちの生物学的、身体的な健康だけなく、精神的な健康、さらにいえば、子どもが子どもらしくいられる「安心」を保障することが前提となっています。

その意味で、子どもたちの生物学的、身体的な「健康と安全」に関する専門家が医師をはじめとする医療関係者であるならば、子どもたちの精神的健康や安心を保障する専門家は教師であるといえます。そこで保障される教育は、学習指導要領の内容を遅れさせないための補習や、ましてや全国学力テストに対応するための準備教育ではなく、子どもたちの人間としての成長、発達を促すことにあります。