3月。子どものいない学校で、教師の専門性について考えてみた

もちろんわたしたち教師も今の教育政策の中で、いつもいつもこのような専門性が存分に発揮できているわけではありません。上から言われたことをよく考えもせず、考えさせてもらうこともできず、何となくやってしまっていることもあります。今回の「要請」は、私たちから「3月の子ども」を奪っていきましたが、そのことで私たち教師は「3月の子ども」に思いを馳せ、奪われた3月の意味を考え始めました。実は学校が強力なライフラインであることも思い出させてくれました。今回のアンケートを読んでいると、こんなにも多くの先生たちが、「3月の子ども」と学校の持つ意味を言葉にすることができるのだとあらためて知りました。しかし同時に、こんな言葉が普段の職員室で聞かれることがほとんどないことにも気づきました。私たち教師から「子ども」を語る言葉を奪っているのなんなのでしょうか。詳しくは機会を改めますが、私たち教師は教育を「子ども」で語るのではなく「政策」で語ることを強く要請されています。皮肉なことに子どもを奪われた学校で、子どもを語る言葉が生まれている学校もあります。私たちが取り組んだ教職員アンケートは子どもを語る場を提供するものでもありました。

教師の専門性というのは子どもにとって私たちの教育活動はこんな意味があると語ることができる。こんな時間が必要なんだね。こんな時間もたまには必要なんだねと、子どもにとってその時間が持つ意味を語ることができる。子どもにとってその場所が(例えば教室が、運動場のように広い場所が)もつ意味をかたることができる。そして、顔を合わせて学び合い、体をぶつけ合いながら遊びあうなかまの存在が、どんな意味を持つのかということを深く知っている。それが教師の専門性なのだということをあらためて思い知らされました。「3月を奪われた」子どもたちを、同じく「3月を奪われた」教師たちが、4月どうやって迎えるのか。そこにこそ教師の専門性が発揮されなければならないと考えています。