学校という場所の意味を考えて…

学校は子どもたちが分け隔てなく愛される場所だから

宗谷の大先輩から学んだ言葉に「教師の責務」というものがあります。

学校は保護者・住民の教育への願いに応える教育活動を豊かに進めることが基本です。そのために一人ひとりの教職員の専門性・自主性が尊重されることが大事です。子どもたちの人格の完成をめざして全教職員が力合わせをします。

 

昨今の言い方でいうと、「教師の専門性」という言葉に近いのかもしれません。ひとりひとりの力としての「教師の専門性」を教職員集団としての力として高めていく、力合わせをしていくというのが、大先輩の時代から受け継がれてきた「教師の責務」というものなんだと、私は理解しています。

もっと簡単に言えば学校教育は、「子どもたちが学校という場所で共に過ごすことでしあわせを分かち合えるような営みを大人たちが創り出すこと」なんだと思っています。

 

ちょっと話がずれますか、私にとって「学校」という場所がかけがえのない場所になった幼い頃のエピソードがあります。

私の子ども時代は、今でいう「貧困家庭」で母親は一人でどうにか家庭を支えてくれました。小・中学生の頃は「なんかほかの家と違う」とかすかに思う程度で済むように配慮してくれていたのだと思います。それでも、私には物理的に「普段から接する大人」は母親しかいませんでした。親と子ですから、ぶつかります。父親や親戚などがいれば息抜きもできたのでしょうが、そうもいきません。おのずと私は、「学校の先生」という身近な大人に大きな信頼を寄せていきます。小学校2年生のときに担任の先生のあたたかさにふれ、楽しくなかった毎日に光が差したように感じました。そして、そこからまるで当たり前のように自分も教師になると決めて疑わず、教師への道を選ぶことになりました。

 

「学校」という場所は、そして学校教育という営みは、それくらい子どもたちにとって大きなものであるのだと思います。今の時代は子どもたちの生活環境はますます多様になっているのではないでしょうか。「ランドセルに生活を詰めて学校に来る」という〝たとえ〟がありますが、子どもたちは学校の授業や休み時間に仲間と関わり合ったり学び合う中で個性を豊かにしていきます。時には「あっ、やっちまった!」という友達とのトラブルもあります。そんなときには、先生と共に考え平和的な解決を求めあいます。そんなふうにして、学校教育は成り立っています。

 

いま、全国のいくつかの市町村でこうした「学校」という場所の役割を確かめ合い、学校再開の判断をする例がいくつかあります。

  • 「保護者の事情を考えると、学童保育の需要は高くなる。それなら学校で通常授業をしたほうが健康面、安全面で良いということになった」(栃木県茂木町/時事通信社)
  • 「休校による家庭生活・就業への影響、特に子どもたちの学業・心理的ストレスなどを考慮」(岡山県鏡野町ホームページ)

改めて、こうした学校教育の基本に立ち返った判断が地域・保護者の願いの下で行われる市町村が増えていくことを願っています。